秋山好古

秋山好古とは

安政6年(1859年)、伊予松山藩士秋山平五郎の家に生まれる。 幼名は信三郎。「日本騎兵の父」の異名をもつ。 連合艦隊参謀の秋山真之(さねゆき)は実弟。

松山藩では正岡子規の叔父にあたる加藤恒忠と並ぶ秀才であった。明治元年に実弟の秋山真之が誕生するが、父平五郎は生活苦から真之を 「いっそ寺へやってしまおう」 と決める。
それを10歳になる好古がきいていて、
「あのな、そら、いけんぞな。お父さん。赤ん坊をお寺へやってはいやぞな。 おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」
と父平五郎をいさめる。 しかし、生活費を稼ぐために学校を通うのをあきらめ、銭湯の風呂焚きの仕事をしながら独学で勉強をする。

17歳で単身大阪に出て、歳を偽り師範学校の試験を受け合格する。
卒業後教員となり、名古屋にある県立師範学校(現:愛知教育大学)の付属小学校に勤めることになった好古は、この学校に誘ってくれた松山藩の先輩和久正辰より、
「月謝だけでなく生活費はただで、小遣いまでくれる学校がある」
とすすめられ、身を任せるまま陸軍士官学校に入校する。

そして、陸軍大学校へと進み、明治20年(1887年)から3年間はフランスに留学し、ここで騎兵戦術を習得する。乗馬学校校長・騎兵監などを歴任し騎兵科の確立に尽力する。

日清戦争では騎兵第一大隊長(第ニ軍、第一師団)として出征、金州、旅順を攻略。 北上しながら転戦を重ねる。 北清事変では第五師団の兵站監として出征、乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務した。

日露戦争では騎兵第一旅団長(第二軍)として出征、緒戦から偵察、側面援護と力戦し、ロシアのコサック騎兵の突撃を阻止する。
特に沙河会戦後の黒溝台の会戦では、全軍の最左翼・黒溝台方面約30kmを固めた秋山支隊にロシア第ニ軍主力が全力をあげ反撃を加えるが、10万のロシア軍を相手にわずか8千人で死守するという鉄壁さをみせる。 「日露戦争の最大の危機」といわれた同会戦を勝利に導いた戦功は大きい。 (写真は陸軍大将時代、右は清浦奎吾元首相)

1913年(大正2年)第十三師団長、15年近衛師団長。 16年朝鮮駐剳軍司令官。
20年教育総監を務めるが、晩年は軍を離れ郷里松山の北予中学校長に就任する。

 

「自分がこれまでになったのも、兄のおかげである」  弟・秋山真之談

秋山好古は弟真之の将来を考え、
「田舎に置いていたのでは立派な男にならない。やはり東京へ呼んで、自分が監督し、みっちりと勉強させねばならない」
と云って、自分の許に呼び寄せます。

好古は真之の面倒を見はしましたが、飴をしゃぶらせるような可愛がりかたは一切せず、とても厳しく躾けます。例えば、松山の母が真之に東京は寒いだろうと思って綿の入った足袋を送ってくれても、好古は「贅沢だ」といって脱がせたり、またある雪の日、真之が玄関でグズグズしていると、好古が出てきて、
「何をしとるんぞ」
「下駄の鼻緒が切れているから直しているんです」
「裸足で行け」

と怒鳴ります。

晩年秋山真之は、自分の家に訪ねて来るよう人々には、親戚の誰人であり年長者であろうと、自分が床の間を背にして坐り、決してその座を与えませんでしたが、ただ兄好古が訪ねて来る時だけは、自ら立って座布団を裏返し、好古を床の間の方に坐らせ礼儀を正したといいます。

とても怖い兄だったようですが、それでも真之は、
「自分がこれまでになったのも、陸軍の兄のおかげである」
と、いつも第三者に述べていたと云います。

 

「秋山さんは人間としての元帥である」  白川義則中将(のち大将)談

「秋山さんは元帥になるべき人である。日露戦争に露軍の770隊11万何千のコサックを破ったというだけでも元帥の値打ちはあろうに・・・」
などと嘆いた人がいた。

これを聞いた白川義則中将(のち大将)は、
「そういうことを言うべきではない。秋山さんは人間としての元帥である」
と諌めた。

 

「子供の教育法」  母・貞談

福島安正将軍が、ある日、貞子夫人を訪ねて、子供の教育法を、懇ろに質問しました。
貞子夫人は答えて、
「私のような昔気質の人間ですから、ただ普通の事をしただけで、何も変った教育などはいたしませんでした。ただ好古は、赤坊の時から体が弱うございまして、そればかり苦労しました。」
と、謙遜され、それだけを言われたのでした。

 

「あれで中々着物の趣味がありました」  妻・多美談

秋山はあれで中々着物に趣味があったらしいのですよ。気に入った物を着せるとニコニコしていますが、粗末な物を着せると矢張り機嫌が良くなかったようです。その癖少しも御構いがないのですから、着物だけには弱らされました。ひどく襟垢の付いた着物で、久松様の御邸などへ平気で出掛けるのですから、ちっとも油断が出来ないのです

 

「乃木大将の性格に似ている」  森岡守成大将談

秋山将軍の性格は、乃木大将の性格に能く似た所があり、非常に又乃木大将を崇拝していられたと共に、乃木大将も亦将軍を信ずることが頗る厚かった。
そうした両将軍の関係は、日露戦争の末期、敵を奉天から北に追撃してから後の対陣中、乃木将軍が騎兵集団司令部に将軍を訪ねられた時、お二人の交情誠に濃かなものがあったことなどから見ても、それを推測するに難しくないのである。

 

「実に変った、類のない非凡な将軍であった」  竹内栄喜少将談

秋山将軍は実に変った類のない非凡な将軍であった。
強いてこれを求めるならば明石、宇都宮両大将であろうか。
この三将軍の性格はどこか一派相通ずるものがあったようである。

 

「勇気の人間であり、不言実行の男であった」  内山小次郎大将談

秋山は勇気の人間であり、不言実行の男であった。
余り饒舌らない所に、秋山の味があったようだ

 

漫画「日露戦争物語」と秋山好古との縁

漫画「日露戦争物語」の著者である江川達也氏は、愛知教育大学を卒業しておりますが、その愛知教育大学の前身こそ好古が赴任した名古屋の県立師範学校であります。