秋山真之

秋山真之とは

明治元年(1868年)3月20日、父平五郎と母貞の五男として生まれる。幼名は淳五郎。

「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古の実弟であり、「秋山兄弟」としても有名。さらに正岡子規とも親交があり、その文才も高く評価された。

日露海戦旅順閉塞戦での「舷々相摩ス……」
日本海海戦での「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
そして、「古人曰ク勝テ兜ノ緒ヲ閉メヨト」で結ばれる
「連合艦隊解散の辞」も、秋山真之の起草といわれる。

日本海軍史上きっての戦略家といわれる秋山真之は、海軍兵学校を首席で卒業(第17期)。 日清戦争には砲艦筑紫の航海士として参加し、戦後アメリカに留学してマハン大佐の薫陶をうけ、米西戦争(1898年)では観戦武官を務めた。 米・英駐在の三年間に海軍の戦略・戦術・戦務の三概念を具体化し、帰国後海軍大学校教官となり普及させた。

1903年(明治36年)12月、第一艦隊兼連合艦隊参謀、日露海戦全期間を通じて連合艦隊の作戦主任を務める。

  • 旅順に停泊する太平洋艦隊に対する閉塞作戦
  • バルチック艦隊に対する大回頭(俗にいう東郷ターン)及び丁字戦法
  • 七段構えの三段からの攻撃計画

などを提案し、日本海海戦では敵艦隊を殲滅し日本海軍を圧倒的な勝利に導く。

秋山真之連合艦隊司令長官東郷平八郎は、真之を「智謀湧くが如し」と称え、上官たちも彼の頭脳の優秀さには舌を巻き、ほとんどの作戦を彼に一任していたという。
写真は柳樹房の会見での秋山真之。
下段左から東郷平八郎、乃木希典。

日露戦争後は「三笠」副長、「秋津洲」、「音羽」、「橋立」、「出雲」、「伊吹」と各艦長を務める。第一艦隊参謀長、海軍大学校教官、 1914年(大正3年)海軍省軍務局長となり、1916年軍令部出仕(欧米出張)、のち第2水雷戦隊司令官、将官会議議員。 第一次大戦では艦隊の地中海派遣を推進した。

1917年(大正6年)中将となるが健康が優れず待命仰付。翌年1918年2月、51歳の若さで逝去する。

 

「人物採点表」  竹馬の友・正岡子規から見た真之とは

正岡子規の「人物採点表」によると、真之は「人ヲ評スルニ能ク驚キ能ク賤シム」 とあり、他人の批評をするに可もなく不可もないといった態度をとらず、学才のある者にはひどくおどろき、たいしたことのない人物についてはひどくいやしめると評しています。

さらに、「勇気」、「才力」、「色欲」、「勉強」、「負惜ミ」の五項目で評価し採点しています。それが右図となります。

勇気  70点   才力  85点
色欲  80点   勉強  60点
負惜ミ 80点

なお、子規自身を評したのが右図です。

勇気  70点   才力  90点
色欲  75点   勉強  50点
負惜ミ 50点

他は負けても、「才力」では負けを認めない。

升さんらしいです...

 

「秋山と碁をうつと面白い」  小村寿太郎侯爵談

「秋山と碁をうつと面白い。いつでも百目も取るか取られるかの勝負だから。アハハハハ」

小村寿太郎が外務省にあった時、次官以下下僚の意見など余り重きを置かなかった人でしたが、秋山真之だけは特別で、いつも進んでその意見を叩いていたと云います。
また私交でも深いものがあり、二人は碁敵同志であったと云います。

 

「智謀湧くが如し」  島村速雄海軍少将談(のち大将・元帥)

私は、日露戦争では、開戦から旅順陥落まで、連合艦隊参謀長をつとめました。

何にしましても、日露戦争の艦隊作戦は、ことごとく秋山真之がやったもので、旅順口外の奇襲戦、仁川沖海戦、三次にわたる旅順口閉塞、第二軍の大輸送、ついで日本海海戦にいたるまでの作戦とその遂行は、すべて秋山の頭から出、かれの筆によって立案されたもので、その立案したものは、ほとんど常に即座に東郷長官の承認を得たものであります。

日露戦争における海上作戦はすべてかれの頭脳から出たものであります。

かれが前述の作戦を通じて、さまざまに錯雑してくる状況を、その都度その都度、統合してゆく才能にいたっては、実に驚くべきものがありました。 かれは、その頭に、こんこんとして湧いて尽きざる天才の泉というものを持っていたのです...

 

「秋山真之をかく見る」  山屋他人海軍大将談

一、少尉時代          俊才

一、米国駐在前後       傑物

一、日露戦役前         哲人

 

「秋山名教官」  山梨勝之進海軍大将談

私が海軍大学校生のころ、教官に秋山真之中佐がおられました。 戦略・戦術・戦務を体系づけた、とびつきたくなるように魅力的で、筋が通って胸のすくような講義でありました。

アメリカ海軍の空気と感情と、科学的方法と組織とを日本海軍に導入されたのは、秋山教官の力であります。ジョミニあり、クラウゼヴィッツ、孫子などが口をついて出てくる。川中島の戦史を説くとき、いわゆる「車がかりの戦法」とはこういうものだと、詳しく説明して下さいました。

「二十閲月ノ征戦已ニ哲事過ギ……」という「連合艦隊解散の辞」など、いっぺんでなぐり書をしたといわれますが、世界の名文ですな。普通の人ではありませんでした。のべつ頭が活動しているのですね。兄さんの好古将軍も偉い人でしたが、頭の方は弟さんのほうが上でした。

あの頭の働き具合は、われわれの知っている海軍の先輩のうちでは、秋山さん一人のものであった。秋山さんは、本当に偉い、立派な人で、アメリカの海軍から図上演習、兵棋演習を学び、それから海の上に緯度経度にそって平行線を引き、その一つ一つの区画に地点番号をつける。そういったやり方を導入して、日本海軍の兵術の基礎を据えた人でした。

 

「礼儀作法に無頓着」  飯田久恒中将談

秋山参謀は天才肌の男であるが、スリッパで食堂に入ったり、長官より先に盛皿から食べ物を取るなど礼儀作法などに無頓着であった。 しかしそれが通り相場になっているので、東郷司令長官始め誰もこれを異としない。

ベッドに寝転んでじっと想を練り、腹案が決まると、たちどころに筆をとって立派な計画や報告が出来上がるといったふうであった。

 

「上杉謙信のような人だった」  清河純一中将談

提督は甲越の争いには非常に興味を持っていたらしい。提督の性格としては、信玄よりも謙信の方が好きらしかった。といって謙信が好きかと正面から聞いてゆくと、例の負けず嫌いの性格で、図星をさされるのが嫌いだから、これを否認して居たようだったが、どうもいろいろの点から推して、謙信がすきだったように思われる。また提督が謙信のような人だったというと、相当反対論が出るであろうが、人物の全部がそうでないままでも、何処か一致した点があった。

しかし其の戦法となると、提督の戦法は寧ろ謙信流よりも信玄流の方に近いと思われる。提督の作戦計画は極めて科学的で綿密であったからだ。

 

「秋山真之提督の偉いのは」  山本五十六司令長官談

秋山真之提督のほんとうに偉いところは、あの日露戦争の一年半で、心身ともにすり潰されたところにある。そして東郷元帥を補佐して偉業をたてられた。軍人はこれが本分だ。お互い、この大戦争に心身をすり潰すことができるのは、光栄の至りだ。わかったか。

これは、太平洋戦争時、ガダルカナルの戦況が悪く、重苦しい雰囲気に包まれた連合艦隊司令部を一喝した、山本司令長官の言葉です。

 

「淳さんは恐ろしくて好きだった」  河東碧梧桐談

我輩が11、2歳の物心つき初めた頃に、少くも我輩の憧憬した二青年があった。何だか其の統率の麾下に参ずる一兵卒のような気分で、物見遊山に往ったり、泳ぎに往ったりしたものだった。首領株は馬島某であった。今一人の青年は隊中の闘将とも言うべきで、どんな相手にも背ろを見せない颯爽たる気魄と風采とを持っていた。

其の闘将が先頭に立つ時、天下に何の恐いものもないような勇気と安心とが、我々の胸に一杯になる程だった。名を秋山の淳さんと言った。淳さんは恐ろしくて好きであったのだ。

 

「チンポが痒うていかん」  高浜虚子談

子規居士と茶談中、同郷の人物評となると、秋山君に及ばぬことは無かった。 始めて同君を見たのは松山に同郷会というものが出来た年で、恐ろしい目付きをした鼻の尖った運動の上手な人だと思った位の事であった。その後お囲い池の水泳練習場で秋山君は真裸で「チンポが痒うていかん」といいながら砂を握って両手で揉まれた事を記憶して居る。

君の父と余の父とは旧藩時代同役であり、そういう関係で「秋山の息子は皆ええ出来で八十九(久敬)さんは仕合せじゃ」というような話を父や父の友達から聞かされてなつかしく思って居った。しかし砂でチンポを揉むような男らしいことの出来ぬ自分は淳さんには寄り付けんものと諦めて居った。

 

「体中アンテナを張り廻らしているような人であった」  桜井忠温談

秋山中将は型が変わっていた。日本海の作戦主任参謀として、「この日天気晴朗なれ共波高し」の名報告を残したが、体中アンテナを張り廻らしているような人であった。さわればピリピリとする人であった。

一寸した絵も描いた。鯉の瀧のぼりがお得意であった。素麺を食っているようではなかった。
「ふんどし論」だのという名文が慶応義塾に残っている。「日本男児は六尺の褌をしめろ、ユルフンでは大事は出来ぬ」といっていた。自身軍服の下に六尺をしめ込んでいた。