紹介

正岡子規とは

1867年(慶応3年)、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれる。幼名は升(のぼる)。

父隼太は早世するが、母は藩儒大原観山の長女で、文学的芸術的な系統を受けて、5歳にして素読を学び、11歳で絵を学び、その時代には既に異色のある児童として認められていた。
勝山学校時代には竹馬の友・秋山真之と出会う。

松山中学在学中に、自由民権運動の影響を受けて政治家を志すが、好奇心と探究心が旺盛な子規にとって、松山という田舎では満足せず、1883年(明治16年)に松山中学を中退して上京。 秋山真之と共に東京大学予備門に合格するために英語を習った共立学校では高橋是清に教えを受ける。

それでも子規は英語は苦手のままであったが、運良く大学予備門に受かり、そこで生涯の友・夏目漱石と知り合う。快適な書生生活であったが、とつぜん秋山真之がひとり大学予備門を退学し、海軍の道へとすすんでゆく。今生の別れを意識し、子規は落胆する。

子規は、1889年(明治22年)5月に喀血をしてから、「子規」(ホトトギスの異名)と号する。
療養のため一時松山に帰省をするが、ちょうど海軍が築地から瀬戸内の江田島に移り、子規は秋山真之と再会する。

太政大臣になることをめざし上京した子規ではあったが、療養もあり落第をくりかえした。
1892年(明治25年)、子規は東京帝国大学を退学し、俳句の道に転じ「俳句革新」を志す。

日清戦争では従軍記者となるが、帰りの船中で喀血し、肺結核で病の床につく。以後脊髄カリエスで長く病床で暮らすことになるが、創作活動は衰えることなく、1898年(明治31年)には、『歌よみに与ふる書』を書き短歌の革新にも情熱を傾けた。病床六尺に在りながらも、美の行者としてありつづけた彼だが、1902年(明治35年)9月19日に力尽きた。36歳の誕生日をむかえたばかりの翌々日であった。

主な著作は、『俳人蕪村』(1897年)、『俳諧大要』(1899年)、句集『春夏秋冬』(1901年)、随筆日記集『病牀六尺』(1902年)、歌集『子規遺稿竹の里歌』(1904年)など

 

 

「子規居士小伝」寒川鼠骨談

16歳で初めて東京へ遊学、初め漢学を次に哲学を志して遂に大学予備門に入学、東京帝国大学では国文科に入り、二ヵ年の修行で病気のために退学した。居士は大学で修める学科が居士の志す所と没交渉のものが多いからというのを退学の一理由としているけれども、勿論病気ということもその退学原因の重大なものであった。

退学が病気に因る如く、居士の事業また病気によるものが多い。その俳句研究を始めたのは喀血後明治21、2年頃からである。 「俳句を研究せねば、足利以来の日本文学とその思想は到底鮮明することは出来ない」 とは、その頃居士が他に語る口癖であったが、斯く考えることもまた病身ということが手伝って力あるものである。そうして24歳より俳句の復興革新に志し僅々5年29歳の頃には略ぼその大業を成就するに近くなったのである。

次に30歳頃から和歌の革新を思い立ち、「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ歌集に有之候」という当時としては歌壇の反逆児としか思えない畏る可く宣戦の言葉を放って健闘すること3年有余、その34歳の頃には既に速くも歌壇一千年の永き惰眠を覚醒し、写生趣味による真実味と自然味とを和歌に注入して以て殿上文学たる和歌を地下の書生学徒の手に移したのであった。

次で文章の革新をも思い立ち、写生趣味を加えた言文一致の文を発表し、真実を自然のままに叙写するのでなければ、到底永遠の生命ある文章を得べからざることを称道し、所謂写生文なる一派の文を興すに至ったのが、明治32年頃からその晩年たる35年頃までの活動により成就せられたのであった。漱石の猫が生まれたのもまた実に子規居士の造った揺籃に於てしたのである。

かような明治文学史上に最大の意義ある事業を為す傍ら、明治24年頃から、俳句の分類だの、俳家全集などの編著にも精力を注がれた。

20歳喀血し、30歳脊髄を冒されて、腰は全く立たず、カリエスは開口して漏膿し、痛苦を伴った。30歳の頃以後は年百年中37度ないし39度くらいの体温を干満した。生まれて虚弱、13歳より5、6年僅かに小康を得、そうして盛年常に病魔に冒されて以て一生を終わった。居士は畢竟病を以て終始したものである。そうして享年僅かに36歳、明治35年9月19日示寂せられたのである。

寒川鼠骨「子規居士小伝」より

 

 

 

「正岡子規との交際」  夏目漱石談

非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合はして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたらとても円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善かったのだな。

今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたらと思う。もっとも其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突しなったのでもあろう。

忘れていたが、彼と僕と交際し始めたのも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生(子規)も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大に近よって来た。

『漱石全集16』より

 

「のぼさん」  河東碧梧桐談

われわれ子規に親炙した者の間で、子規を「先生」と呼んだこともなく「師」とも「翁」とも言ったことがない。本名の「升」をお国風に訛って「のぼさん」という「さん」づけで終始して来た。
之は、お国の侍格の交際の習慣で、敬意も籠められおり、同時に分け隔てのない親しさを表明していた。「君」というより「お前」と呼ぶ方に、ずっと同輩視した親しみを感ずるように、そこには同郷同族同年輩の、お互いが一つになった悦びの無量なものが籠っていた。

河東碧梧桐著『子規を語る』(升さんと食物)より

 

「子規居士と余」  高浜虚子談

余は小説家になろうと志し、やがて早稲田文学柵草紙(しがらみぞうし)等の愛読者になった。其れから同級の親友河東秉五郎(碧梧桐)君に此の事を話すと、彼も亦同じ傾向を持って居るとの事で其の以後二人は互いに相寄るようになった。

其れから河東君は同郷の先輩で文学に志しつつある人に正岡子規なる俊才があって、彼は既に文通を試みつつあるという事を話したので、余も同君を介して一書を膝下に呈した。 どんな事を書いて遣ったか覚えぬが兎に角自分も文学を以て立とうと思うから教えを乞い度いと言って遣った。

それに対する子規居士の返書は余をして心を傾倒せしめる程美しい文字で、立派な文章であった。是から河東君と余とは争って居士に文通し、頻りに文学上の難問を呈出した。居士は常に其れに対して反復丁寧なる返書を呉れた。其れは巻紙の事もあったが、多くは半紙若しくは罫紙を一綴にし切手を二枚以上貼った程の分量のものであった。

子規居士は手紙の端にいつも発句を書いてよこし、時には余等に批評を求めた。余等は志が小説にあるのであるから更に此の発句なるものに重きを置くことが出来なかった。しかも近松を以て日本唯一の文豪なりと早稲田文学より教えられていたのが、居士によって更により以上の文豪に西鶴なるもののある事を紹介されて以来、我等は発句を習熟することが文章上達の捷徑なりと知り、その後やや心をとめて玩味するようになった。

高浜虚子著『子規居士と余』より

 

 

 

「歴史的役割を見事に果した」  中村草田男談

彼の事業の価値は、彼の時代を、過去と未来との連関に於て生かした歴史的価値である。いつの時代にでも為し得る文芸の単なる個人的操作の範囲にあるものではなくて、維新以後第一回の日本文芸再出発の時期に、歴史的役割を見事に果したところに意味がある。

中村草田男編『俳句の出発』より